やきそーヴぁ(TEXT)
タイ語で顔文字を作ると、眉毛のアレンジが多彩になるのねん… ( ・ัω・ั)( ・ิω・ิ)( ・ีω・ี)( ・ึω・ึ)( ・ืω・ื)( ・็ω・็)( ・่ω・่)( ・้ω・้)( ・๊ω・๊)( ・๋ω・๋)( ・์ω・์)( ・ํω・ํ)( ・๎ω・๎)
魔法少女アニメって日本が専売特許みたいに思われてるけど実際にはスターリン時代の旧ソ連で1948年に作られててビックリ。しかも少し萌え絵っぽいテイストで「崖の上のポニョ」よりもウネウネ動いているという…『Мультфильм Цветик 』http://t.co/aBBJEMXQ
cineraria:

けしからん猫の跳躍力は歪みない。 ‐ ニコニコ動画(原宿)
suikatou:

メビウス氏にサインをもらって、狂喜する夏目房之介

仕事をしていると、たまに謎ワードを聞くことがある。「登場感が欲しい」とか。これはかなり謎だ。わかるようで、わからない。登場感、何となくわかるような気がするが、じゃあそれを作るためには何が必要なのかと考え始めると苦しい。これに限らず、ナントカ感、とつくような言葉がある。スピード感、緊張感、劣等感・・・「感」がつくことによって、どういう変化があるのだろう。

女性が言う、もてる男の条件に「清潔感」というものがある。これは清潔とは違う。単に風呂に入り、歯磨きをしてもだめだ。清潔感にはおそらく二つ条件がある。ひとつは、「手入れをしていることがうかがえる感じ」。無精ヒゲとか、衣服のしわ等がマイナス要因になる。無造作ヘアというのは、ぼさぼさ髪と紙一重だけれど、手入れをしている感じがうかがえればOKだ。もう一つは、「健康であることの表示」。適度な日焼けや、吹き出物などがない肌というのがポイントになる。これらは正直、清潔さとはほとんど関係がない。でも、清潔感とは深い関係がある。

あるウェブサイトを見ているとき、感心したことがある。スピードを表現しているのだけれど、サイトが非常に軽い。大画面の映像で、スピーディーな表現をやろうとすると、たいてい重たいサイトになってしまう。しかし、このサイトではスピード感を表現していた。よく見ると、表示はコマ送りでしかないのだが、一つ一つのコマは静止画ではなく、動いている残像のコマなのだ。コマ送りでしかなくとも、残像が入っていることによって、人間はスピード感を感じることができる。スピードではない、スピード感の表現。

もっと抽象的に、自由と自由感の違いというものもありそうだ。自由というのは、何にも妨げられないで主体的に振る舞えることだと言える。では、何もない画用紙に、好きに自分を表現する、というのは自由だろうか。客観的には自由かもしれないが、頼りどころがない。子供だったら、塗り絵の枠線が書かれている方が自由だろう。Twitterは、好きにつぶやけと言う。そのとき、140字の文字制限がある。好きにつぶやけというのは不安を感じさせるけれど、140字の限定は自由感をもたらす。あるサイズの限定は自由ではないかもしれないけれど、自由感を生む。

バックパックを背負って海外に出かけていたころ、マレーシアのなんだかわからない街に泊まったことがある。長距離鉄道に乗っていて、たまたまそこで降りただけ。観光地でもなく、日本人も見あたらない。そんな街に、ほとんど誰も泊まっていない宿があった。一泊、百円くらいだったその宿には、窓にガラスはなく、シャワーも水しかでない。じゅうたんもなく、布らしきものはベッドの上にしかない。備品と呼べるものは灰皿くらいで、この灰皿だって何かの食品の缶詰が置いてあるだけで、ほかには豆電球が部屋に一つ。そんな宿だったが、気持ちは非常に自由だった。こんな状況で感じる自由は、自由というより自由感だろう。

「感」がつくとき、その概念は人間のカタチになっている。わかるようでわからないこの「ナントカ感」を把握することが、表現やコミュニケーションにおけるコツなのかもしれない。

広告β:ナントカ感の正体 (via ssbt) (via otsune) (via ittm) (via karlmcbee) (via uessai-text) (via l9g, l9g)

2009-11-16

(via gkojaz, gkojaz) (via yaruo, yaruo)

(via deli-hell-me, deli-hell-me) (via magao, magao)

「いつかはクラウン」「いつかは持ち家」といった成長期の神話が完全に崩壊していることを、実は生活者の多くは感じ取っている。自動車を買えば理不尽なハンディキャップを負わされることになるし、背伸びをして家を買えば住宅ローンに縛られてマイナス数千万円の負けから入るような人生になる。日本ではどんな家も買った途端に価値が1000万円下がってしまうし、家を抵当に入れても銀行はまともに金を貸してくれない。法人はまだしも個人の場合、たとえば6000万円で買った家を抵当に入れても、銀行は半分の3000万円も貸さないだろう。資産どころか、住宅は重荷にしかならないのだ。

子供の教育にしても、大学まで出してやるのが親の務めという考え方はもはや通用しない。親の収入が激減して、脛がかじれなくなってきたからだ。加えて大学全入時代になると、大学に入る意味が本気で問い直されるようになる。職能を身につけるためなら専門学校のほうがいいという判断もあるし、欧米のように一度、社会人経験をしてから自分で稼いだお金で、あるいは自分で銀行ローンを組んで、大学に入り直すパターンも増えてくるだろう。しかしその価値のある大学が果たして何校日本にあるのか、という疑問は残る。

気が付いてみたら世の中はすっかり変わっていて、今、一番まともな生活をしているのは高校時代に成績が悪かったタイプだ。身の丈に合った職能を身につけて、等身大の人生を楽しんでいる。一方、高校時代は成績優秀、いい大学を出ていい会社に入って勤めた人ほど、出世競争の無間地獄を味わっている。競争に敗れれば将来の昇進昇給もなく、リストラの恐怖に怯えるだけ。競争に勝ち残っても、膨大な仕事に追い回され、無理して買った郊外の家から往復3時間の通勤で疲労困憊の日々。つまり成長期の出世コースを踏襲して背伸びして生きてきた人ほど、わりを食う時代なのである。

身の丈に気付いた人は車を避け、持ち家を避け、子供の教育に金をかけることにも疑問を感じ始めている。今回の震災で過剰な自粛意識が日本を覆ったのは、実は大多数の国民が自粛して生きることの必要性を心のどこかで感じていたからで、震災や計画停電は単なるエクスキューズにすぎなかったのではないか。

すでに崩壊した成長神話の残滓にすがっている限り、日本人は苦しみ続けることになるだろう。背伸びしても昇進と昇給で追いついてくる、という甘い発想からいかに早く「身の丈に合った」生き方、ライフスタイルに切り替えるか、が問われている

数年前くらいから大前研一氏の言説がマトモになっている。これも真っ当な論。

ちなみに僕のヨメの母は大前氏と大学時代の同級生で、出来の悪かった当時の大前氏を助けて、何度も何度もノートを貸したり勉強を教えたり代返の手配をしたりと、イヤイヤながらもやっていたそうだ。

「調子ばっかりよくて、本当にダメ人間ってカンジだったけれど、弁が立つのよね。だからワタシなどもイヤイヤ勉強の手伝いをさせられたんだけれど、まさかそれだけであそこまで行くとは思わなかったわ。」

[教えて大前先生] 不景気関係なし。「ヒット商品」が出ない理由 大前研一の日本のカラクリ:プレジデントオンライン

(via kashino)

fiend-for-nicotine:

This looks oddly familiar.

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